昭和四十八年二月十三日 朝のご理解


ご理解第四十五節
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と云われるようになると、頭を下げることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振り上げたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取はずすぞ。」


 慢心と云う、私より上はないと云ったような心だけが、私は慢心ではないと思う。
 昨日、私、ある方にちょっと注意した、そしたらもう途端に、暗ーい顔される、その事が気になりましたから、神様にお礼申させて頂いておりましたら、「小腹を立てる」と頂きました。
 お互い一つ、小腹を立てんですむおかげを、頂かなければいけん、ちょいとした事を云われたら、もう心が暗くなる、云うならちょいとした事にぷりぷりする。
 私は、今日はね、慢心が出るとおかげを落すと仰有る、それはやはり、その人が慢心しておるからです、腹が立つのは………自分がよかとのように思うて居るから、腹が立つのです。
 光の前に立つと、自分の黒い影がハッキリ判る、本当に、自分自身ハッとするほどしに判る、自分の云うならば、心がおののくほどに、ハッと思う事がある。
 信心と云う大きな光の前に、立たせて頂く、教えと云う神様の、お徳の前に出して貰うと、自分と云う者がハッキリ判って来る、光が判ると云う事は、自分が判ると云う事、光の前に立つから、自分自身の心の隅々まで判る、自分が判っていないから、腹が立つ。
 私は、今日、その事を頂いて、本当に小腹を立てちゃならんと思う、折角立てるなら、大きな腹を立てにゃいけん、まあ云うなら、小不足と云うてもよい、小さな不足は云わん、大きな不足を云う、大きな不平を云う、と云うのは、人間的な、不平不足、人間的な、人間なら誰でも腹を立てるだろうと云ったような腹は立てまい。
 「小我を捨てて大我に生き抜け」と云ったような、み教えを頂いた事がある、小欲を捨てて大欲に生きよ、と、もう大欲、大我大腹を立てる、と云うような信心になったらね、その手前の所は、全然問題じゃなくなって来る。
 ちょっと、どうか云われたら、顔色が変わる、ちょっとどうかされたら、ぷりっと腹かく、まあ、自分の心の中に、そう云うようなものが、私はあるとするなら、今、自分は慢心しておる時だと、まず思わなきゃいけません、おかげをとり外すぞ、と、ここでは仰有っておられますけれども、とり外すと云う事よりも、おかげが受けられない、と思うですね、本当の意味でのおかげ。
 例えば文男先生やら、石井喜代司さんあたりが、もう腹を立てん、腹は、一期立てん、と決めた、と云う事は、私はやっぱり、自分自身が、本当に判って来ると云う事じゃないかと、こう思うです。
 ひとつ、今日は、この小腹を立てると云う事、云わば小腹を立てるなと、各々が頂いたと思うて、小腹のたたん信心を、一つさせてもらわなきゃいけません。
 昨日は、美登里会で、本当に時間の経つのも忘れる位、皆さん熱心に信心共励をなさり、皆んながいろいろと発表なさいました。
 昨日のご理解に基づいて、各々が、どこをどう頂いたか、どう感じたか、と云う事を、二十名あまりの方たちが、一人一人発表されました。
 私は、朝のご教話を頂いた後に、今日のご理解の頂きどころ、といったようなものがです、どこだったかと云うものを、まずひとつ、その何を、今日は、親先生は判らせようとなさったか、と云うところを、大掴みにつかんで、それから、例えば、いくらも例え話を申しますからね、昨日の場合なんかは、原さんの例をとりましたり、いろいろ有りましたですね。
 だからそう云うひとつの小さい大意、それから、分段とか、分段的なところをまとめていくと、そして、今日のご理解の頂きどころ、今日のご理解は、ここが有り難かったと云ったような事が、いつでも話せれるように、私は、しとかなければいけないと思う、そう云う意味で、皆さん仲仲よいところを、つかんでおられたとこう思う。 北野の秋山さんが、発表をされる前に、今日のご理解を頂いて、本当にようやく、初めてここのところが判りましたと、私は実を云うたら、少しびっくりしました。
 秋山さん程しの信心頂いておるのが、今日のご理解頂いて、ここが判ったとこう云われるのです。
 と云うのは、親先生がいつも、信心とは、わが心が神に向かうのを信心と云うのじゃ、と、こう仰有るが、その意味が判らじゃったと、こう云われる訳なんです。
 もうこれは、私は最近、口を開けばこれを云うておる、いわば大改まりと云う事、おかげとか、ご利益とか、云う風に向いとるのじゃなくて、自分の心が神に向こうて居る、いわゆる完全におかげから、まわれ右した姿が、神に向かう姿であり、これが大改まりだと。 勿論、わが心が、神に向かうのを信心と云うのじゃ、と云うのは、一歩一歩神に近ずいて行くと云う事。
 けれども成る程、昨日のご理解は、云われてみると、そこんところを、本当に的確に、表現してありましたですね、神は向こう倍力の徳を授ける、ははあ、これが神に向かうのだな、と判った、と。
 しかもそんなら、神に向こうて一歩一歩神に近ずいて行くと云う事は、徳を受けて行くと云う事なのだから、例えば、壁に手毬を投げる例をもって聞いて頂いた。
 壁に勢いよく手毬をぶっつけると、投げた所え又返って来る、これが云うなら、徳を受ける事なんだけれども、毎日、成る程。お参りはしとる、お話は頂いとるけれども、その勢いと云うものがです、ほんなソロッとこう投げる、ようやく壁に当たる位な事、だからあたった途端に、壁の所にストッと下え落ちてしまう。
 そう云う事ではです、いかに神様の方え向いておる、お参りはしておると云うてもです、神に向かうと云う事ではない、自分の所えピタッと、受けとめたところの時点が尊いのであり、それが積み重なって、信心の徳ともなれば、力ともなるのだと、そう云う風に頂かれた訳です。
 私は、そう云う風に聞かして頂きよってから、秋山さんが云われる、この位に、そんなら回れ右をすると云う事がです、わが心が神に向かうと云うのを、的確に頂かれておる、と云う人は、しかし少なかろうと又思いました。
 初めは、私は、自分の、わが心が神に向かうのを信心と云うのじゃと云う事が判らん、とこう云う、そこで私はビックリした、これ程、私が、繰り返し云うて居る事がどうして判らんじゃろうか。
 けれども、話しを聞いて行くうちにです、成る程、今日のご理解は、そこんところを的確に、判らせる内容を持っておったなあと、いわば秋山さんが、頂こうとしておられる、わが心が神に向かうと云う事の、その深さに触れていっておられるのに、またその次に驚きました。
 皆さんどうでしょうか、わが心が神に向かうのを信心と云うのじゃ、ですから、もうおかげの方は向かずに、信心とは病気直しやら、災難避けの神じゃない、心直しの神じゃ、信心とは本心の玉を磨くものぞや、と、信心とは日々の改まりが第一ぞと、もうあらゆる表現をもって、わが心が神に向かってしまうと云う事の表現はいくらもある、だから、わが心が神に向かうちゃ、そげなこつでしょうもん、と云う答えだけしか、皆さん出らんのじゃなかろうか。
 秋山さんは、そこん所は、十分判っておるけれども、本当のわが心が、神に向かうと云う事がどうしても判らなかった、一辺お伺いしてみたい、お伺いしてみたいと思いよったら、今朝のご理解を頂いて、そこん所が判ったと、こう言われるのを聞かせて頂いてです、その判り方の深さと云うものに、私は、有る意味で感じ入りました。
 神に向こうて居るなら向こうて居る、そんなら、その都度都度の、その向かい方と云うものがです、生き生きとして、そんならこの手毬を壁にぶっつけて、その返って来るボールを又、受けとめておるかどうか、ここ迄行かなければです、これは何十年お日参りをしたからと云うて、徳は受けないと云う事実をです、沢山の、私共知っておる限りの信者の姿を見れば判る。
 神は向こう倍力の徳を授ける、それこそ1年向こうたら、2年分のおかげ、2年向こうたら、4年分のおかげ、御徳を受けとらにゃならん筈、けれども、受けとる風はサラサラ見えない、ただ、おかげは頂いていきよんなさるから、やめられんで、毎日参りござるけれども、けれども、倍力の徳を授けると仰有る徳を、受けてござると云う風には見えない、そう云う人がどの位有るやら判らんです。
 私は本当に、簡単に早判りすると云う事がです、どんなに浅はかな事かと云う事を、昨日感じました、成る程、わが心が神に向かうと云う事、向かえば神様は、倍力の徳を下さると云う事、その倍力の徳をです、受けていく実感と云うものが、日々なからなければならない。
 昨日、福岡の古屋さんが、合楽と云うところは不思議なところです、と、合楽合楽と云うて、福岡からここまでお参りをなさる、もう本当に、今日はあの事もお願いして、この事もお訪ねせにゃならん、頭の中はこんがらがって、いっぱい、そのおうかがい事やら、考え事やら、頭の中に一杯詰めこんで来る程しにある、福岡からここまで来る間に。
 けれども、ここえ降りて、そして、あの玉砂利を踏んで、御広前まで上がって来る間に、それがスッキリとれてしまう、ほんなこつですもんねぇと云うて、皆んながその事を実感しておる。
 自動車なんかで見える方は、一辺降りてから、もう一辺入って来なおさにゃいかんです、自動車から降りてツーっと来よるとそんな有り難い事が判らん、やっぱり、あの長い玉砂利をさくさくと踏み乍、自分の心が清まる。
 熊本から参って来る、ある先生が、ここにお参りして来ると、脇殿から本館迄の、薄暗い廊下を通って来る、あの薄暗い廊下を通って来る間にです、私の心の中に、「ああお参りをした」と云う実感が湧いて来る、と云うた人が有った、だから、合楽と云う所は、不思議な所だと。
 ですから、お参りをしておって、日々、それを例えば、感じておってもです、そんならここの、境内を出た途端にです、又、頭がこんがらがったんじゃ駄目でしょう、そこまでのおかげなら、誰だって、頂いておると云う事です、参りや、参るがた有るなあと云うものを感ずると云う事。
 けれども、家に帰って見てです、成る程、今日は、これを頂きとめてきたと云うものが残って、それが自分の生活の、支えになると云う程しの、おかげになってこなければ駄目だ。
 秋山さんが云われるのは、その辺の事であった。わが心が神に向かうのを信心と云うけれどもです、それがどうも判らなかった。
 それをああた、おかげの事は云わずに、信心ちゃ、もう神様になる稽古、その道だけを説かれる、その事を教えられるのだから、おかげおかげ、と云いよったのが、信心信心、おかげを頂くより信心を頂くと云う心になり切った時が、わが心が神に向こうた時じゃないですか、とここまでの説明なら、合楽の方が全部できるだろうと、こう思う。
 けれども、それを実感として、そんなら向こうて進んでおる実感、受けとめていきよる実感、と云うものが、積み上げられないとするならです、神様は、倍力の徳を授けると仰有るのに、もう何十年信心したのに、徳らしい徳も受けてないと云う事になるとです、神様は嘘を仰有ったと云う事になる。
 ですから、秋山さんの疑問は、そこに有った、それで昨日の朝のご理解を頂いて、ああわが心が神に向かうと云う事は、この事だったと気がついたと云うのが、ボールを受けとめるところ迄、行かなければ、本当に、わが心が、神に向こうて居る値打ちはないと云う事、そうして、向きは変えとっても、前進してはいないと云う事。
 もう本当に、昨日、私、私も参加させて頂いて、私自身も、いろいろおかげを頂いた。
 そう云う例えば、生き方にならせて頂いた時です、初めて、小腹を立てんで済むような、おかげが頂けるのじゃないだろうか、これならば、例えどのようなかげ頂いても、慢心の出ようもなかろう、いやまぁだ云うならば、おかげをとり落すと云うのでなくて、云うなら、自分の心の中に、ここにお参りをしてきて、何もかもが解決する程しの、何とはなしに有り難いと云う心が頂かれるけれども、その受けとめ方をここでしないから、もう一歩境内を外え出ると、又、元の木阿弥になっとると云う事は、受けとめて帰ってないと云う事になるのです。
 わが心が神に向かうと云うのは、向かえば倍力の徳を授けて下さると仰有る、その倍力の徳に触れていく、頂いていくと云う事が、わが心が神に向かうと云う事になるのです。
 そう云う生き方にならせて頂く時にです、私は、小腹だん立たんようになるじゃろうと思うです。
 ですから、ただ、腹を立てん立てんと云うだけでなくて、根本的なところの信心を頂き、そこの所に信心をふんまえての、生き方にならせて頂いたら、小腹を立てるなと云われんでも、全然問題じゃなくなって来るのじゃないだろうか。
 いや、例えば、そこにお叱りを頂いても、注意を受けても、ああ本なこつと、すぐ頂けるだろうとこう思う。
 そう云う私は頂き方、それは、いつも、私どもが光の前に立たせて頂いておると云う、自分と云うものが、見極められていないと、云うならば信心させてもろうて、ただある意味での、プライドだけが高くなっていく、もう自分は、そげな所は卒業しとる、そこは判っとる、と、それにそれ以下の事で、注意を受けると、もう、カッと来る。
 昨日、研修の前に頂いたんですけれども「いやなお方の親切より、好きなお方の無理がよい」と、都々逸の文句…………いやなお方の親切よりも、好きなお方の無理がよい。
 どう云う、例えよし、無理を云われても、どう云う理不尽な事と思われてもです、それが好きな人から云われるとならば、それが有り難い、結局は、信心が好きにならなければいけない、と云う事ですね。          どうぞ。